町の紹介

 中標津町は、北海道の東部、根室管内の中部に位置し、町域は東西約42km、南北約27kmに及びます。面積は、684.87平方キロメートル。北部は千島火山帯につながる丘陵地で、南側に向かって緩やかに傾斜し、平坦な根釧原野が広がっています。内陸性の気候で、夏の平均気温は20℃前後、冬の平均気温はマイナス10℃前後。積雪は、道内でも少ない方です。

東経 144度58分17秒
北緯  43度33分19秒

交通アクセス情報

町章

 昭和25年1月1日の町制施行を記念して、一般から公募した中から選び、制定されました。中標津町の中の字を中心にした3つの扇模様は、それぞれ片仮名で「シ」「ベ」「ツ」を図案化したものです。円は、町民の和衷協同を表すとともに、根室管内の中心地であることも意味しています。

町民憲章

 わたしたちは、朝夕気高い武佐岳を仰ぎ、標津川の流れとともにひらけゆく中標津の町民です。
はてしない緑の原に、先人のきびしい開拓のあとをしのび、その心をうけて、みんなの力で明るい豊かなまちをつくるために、この憲章をさだめます。
1 からだをきたえ しあわせな家庭にしましょう
  1. 体位を増進しよう。
  2. 健全な子供を育てよう。
  3. 老人をうやまおう。
  4. 家族は協力しよう。
  5. レクリエーションやスポーツをしよう。
1 誇りをもって働き 豊かなまちにしましょう
  1. 明るい職場にしよう。
  2. 職場の安全につとめよう。
  3. 資源をいかそう。
  4. 生産をたかめよう。
1 きまりを守り 明るいまちにしましょう
  1. 時間を守ろう。
  2. 交通道徳を守ろう。
  3. 防災、防犯につとめよう。
  4. 公共物を大切にしよう。
  5. お互にたすけあおう。
  6. 礼儀や、親切を重んじよう。
1 自然を愛し 美しいまちにしましょう
  1. 木や花を育てよう。
  2. 動物を可愛いがろう。
  3. 道路を大切にしよう。
  4. 環境の美化につとめよう。
1 教養を高め よりよい文化を育てましょう
  1. 衣食住を工夫しよう。
  2. 文化活動を推進しよう。
  3. ゆきとどいた教育をすすめよう。
  4. 文化財を大切にしよう。

町の木・花

町の木「シラカバ」

町の木「シラカバ」

町の花「エゾリンドウ」

町の花「エゾリンドウ」

町歌

町歌

町名

 中標津とは、日本語の「中」とアイヌ語の「シペッ=大きな川」に当て字した「標津」を組み合わせたものです。北海道全体の地名がアイヌ語地名であるように、中標津の付近も同様でした。明治時代までの地図にはアイヌ語地名がカタカナで記されていましたが、その後、和人の増加に伴いアイヌ語地名は漢字で当て字されるようになりました。そのため、一見日本語のような地名に変わってしまったため、元のアイヌ語地名の発音とは異なる地名が生まれることもありました。

斜里山道

 かつて、標津川とケネカ川沿いには標津と斜里を通じる「旧斜里山道」という道がありました。もともとはアイヌの人たちが使っていた踏み分け道でしたが、文化7年(1810年)の開通後には、中標津に関する記述のある記録もたびたび出てくるようになります。例えば、この道中に2カ所あった止宿所(宿泊所)の一つは、標津川とポン俣落川の合流地点の対岸にある「チライワッタラ=イトウの集まる淵」であること。また、山道は数度の改修がなされていたことや、現在の中標津市街中央を流れるタワラマッブ川やチナナ川等をはじめ町内数カ所に小休所があったことなどが記されています。その後、明治18年(1885年)には国道244線の基となる「新斜里山道」が開通したためこの山道は廃道となってしまいますが、中標津付近は明治34年(1901年)に区画開放されるまでチライワタラ原野(中割原野)と呼ばれていました。

おいたち

中標津町指定文化財「蛙意匠の土器」

 うっそうたる原生林が生い茂る標津原野には、縄文土器を使った人たちからアイヌの人たちが長い間生活を営んでいました。
 明治34年に区画開放され、その後、北海道の拓殖計画が進み、大正7年には根室原野は2000戸を突破する移住をみました。ところが、大正末期から昭和初期にかけての世界的経済不況と連年にわたる冷害凶作によって離農者が続出。とくに昭和6、7年の大凶作は、移住後まだ日の浅い開拓農民に徹底的な打撃を与え、生活は悲惨を極めました。この計画は、この冷害凶作を機に、道は「根釧原野農業開発5カ年計画」を樹立。これまでの穀物主体から乳牛を主体にした主畜農業に切り替えようとするもので、根室農業は180度転換が図られました。また、同12年には国鉄標津線が全線開通して交通の要衝となり、これに伴って産業形態も整ってきました。

 人口が増加し、産業の振興が図られるのと合わせて住民世論として盛り上がったのが役場の所在地問題。中標津は、これまで標津村に属していましたが役場移転運動が活発になり、やがては分村運動にまで発展しました。太平洋戦争が激しくなり一時は立ち消えましたが、終戦後に再燃し昭和21年7月1日に分村が実現しました。住民のたゆまざる努力とたくましいエネルギーによってその後の発展はめざましく、分村後わずか3年余の昭和25年1月1日に町制施行を果たし、奥根室の中心地として着実に発展を続けています。