言葉の意味と現実

 言葉はその人の認識そのものと思われます。さらに、その人そのものであると言ったら、言いすぎでしょうか。
 またしても、日本の総理大臣の発言です。戦後70年談話は既に発表されましたが、私が気になったのは談話そのものではなく、談話作成以前にそのことに関する有識者懇談会「21世紀構想懇談会」に対し首相の問題意識として、次のような指摘をしたということに対してでした。それは「日本の植民地支配にはネガティブ(否定的)な面は当然あるが、よい面はなかったのか」というものでしたが、……いかがですか。
 私は、常々どのような事柄も一面的なものはない、二つ以上の視点から見なければ真実は見えてこないと信じ、発言もしてきています。そのことからすると、「植民地支配」にもホジティブな面があってよいのではないかと言われそうですが、果たしてそうでしょうか。「植民地支配」にホジティブな面があると思い発言するのは、あまりにも言葉の意味と意味を支える現実や実態を理解していないということではないでしょうか。例えば、「植民地支配」により生活上の近代化や産業における発展がみられたとして、それは誰の何のための近代化・発展なのでしょうか。それ以上に「植民地支配」とはどういうことを意味し、日本が行なった「植民地支配」はどのようなものだったのか、支配された国や人々はどのような状況に置かれ、そのことをどう感じていたのか。その事実を認識し、それらに想像力を働かせて「植民地支配」という言葉を理解し使用できないからこそ、「植民地支配のよい面」を探そうなどという愚行が続けられるのだと思います。悲しい気持ちになります。

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 8月30日(日)、今年も実行委員会・図書館、そして多くのボランティアの皆さんの努力により「青空本の広場」が開催されました。今年は第30回目ということでしたが、それを機にウイングを広げ、「としょかんまつり」として幅広い催しとなり、お茶会なども行われました。
 毎年のことですが、私も数冊の本を本当に安い値段で手に入れることができ、ニコニコと帰ってきました。その中に既に亡くなっている小説家の井上ひさしさんのエッセー「ボローニャ紀行」がありました。井上ひさしさんの小説は「モッキンポット師の後始末」などを、若い頃笑いながら泣きながら読みました。「ボローニャ紀行」は買って帰ってから一ヶ月近くが過ぎ、やっと手に取り読み始めました。
 全編ボローニャというイタリアの都市の様子について書かれているのですが、こんな文章にぶつかりました。
 
『なにしろ憲法で、イタリアは、労働に基礎を置く民主的共和国であり(第1条)、手工業の保護および発展を図る(第45条)と定めているくらいの職人国家ですから、職人産業省もあれば、職人業保護法や職人金融金庫もある。さらに、登録さえすれば組合が結成できる(第39条)ので、だれでも組合会社をつくることができます』
 
 イタリアという国は職業人(職人)を大切にし、それが国の柱になっているのだな、ということが理解できます。なにしろ憲法に謳っているのですから、間違いありません。振り返って、わが日本はどうなのでしょうか。日本は、憲法で戦争はしない、そのための戦力はもたないと謳っています。なぜ、この理想を実現すべく努力しないのでしょう。万が一どこかの国が攻めてきたとき、戦わずにただ殺されればいいなどと思う国民が一人でもいるでしょうか。自分の人生のため、家族の生命や幸せのため、自然や国土や産業を守るため戦わざるをえないでしょう。しかし、そういうことになる前にはどこまでも平和を希求し、憲法の理想を追求すべきではないでしょうか。
 私は、高校生の時、父親と国を守るということについて議論したことがあります。ベトナム戦争真っ只中の時代で、私は非武装中立こそが平和を守るためには大切であると主張しました。それに対しわが父は「留守にするとき、鍵をかけない家があるだろうか。鍵をかけないことはわざわざ泥棒に入ってくれと言っているようなものだ」と私を説得しようとしました。譬えというのは不思議なほど説得力があり、私は「確かにそうだよな、家に鍵をかけない人はいないよな」と思い、一言も反論できませんでした。
大人になってからこの時のことを思い出し考えることが何度もありました。そして、今は「父親の言ったのはどこまでも譬えである。家に鍵をかけなければ泥棒の入る確率は確かに高いかもしれない。しかし、非武装であるからといって中立を宣言している国に理由もなくやたら武装して攻めてくる国があるだろうか。それこそが非現実的な発想ではないだろうか。それよりも多くの国々と仲良く付き合うことにエネルギーを注いだ方が建設的ではないだろうか」と反論したいのですが、その父親も亡くなってから30年が過ぎてしまいました。
 
 こんなことを考えていると、私たちが教育で育てるべき国民は「郷土愛をもち、愛国心に富み、権力の言うことを疑うことのできる人」と定めたくなりますが、言いすぎでしょうか。